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金谷さんが解説!教養が身につく“美知識”大人のための歴史講座で、プレミアムフライデーを満喫!

2017.8.25

毎月プレミアムフライデーに開催している、「オトナの活かせる“美知識”講座」では、知れば“ちょっと賢く”なれるお得な情報をお届けしています。8月25日(金)に行われた第4回目の最後のゲストは、『世界一受けたい授業』などのバラエティ番組などにも多く出演されている歴史コメンテーターの金谷俊一郎(かなやしゅんいちろう)さんです。

今回は、『旦那を出世させる歴史講座』として、出世を果たした歴史上の人物の妻について紹介します。歴史の中で、仲がいい夫婦、家が栄えていく夫婦とは、どういう形だったのかを解説いただきました。

戦国時代の妻に学びたい、
妻=共同経営者という感覚

「夫を出世させる手腕は、日本一どころか、世界でも一番かもしれない」と紹介されたのが、ねね、という名前で知られる豊臣秀吉の妻、高台院。秀吉と高台院は恋愛結婚で、妻の年齢は15歳だったそうです。結婚式も質素で、ゴザのようなものを敷き、その上で祝うところからスタートしたのだとか。そんなふたりの成功の秘訣のキーワードは“子ども”。

「二人は子宝に恵まれなかったのです。戦国時代に子供がいないということは、家が終わってしまうということを意味します。しかし、高台院は、その状況をポジティブに変えました。彼女は、自分の子供の代わりに、家来たちの面倒をしっかりとみるのです」

10代、20代の家来たちには、両親がいない者も多かったとか。高台院はそんな彼らを我が子のように扱いました。衣食住の全般を、手をかけてとても大切にしたそうです。親のように大切にすれば、家来たちの士気も高まるというもの。

「これは現代の相撲部屋に似ています。おかみさんがしっかりしていると、弟子たちも頑張ります。高台院も、内助の功というよりは、共同事業主として、一緒に発展させていくという気持ちが強かったのです。ただ言うことを聞いている妻は、夫を出世させることはできません。高台院は、関白になった秀吉にも唯一、耳の痛い意見を言えた人だったという記録もあります。秀吉にとっては信頼できるパートナーだったのでしょう。夫の意見に従ってばかりのおとなしい妻だったら、秀吉はそこまで出世しなかったはずです」

次に注目したいのは、織田信長の家臣で、本能寺の変を首謀者である明智光秀の妻・ひろこ。

「明智光秀は、再評価が高まる歴史上の人物です。彼は、歴史の中でも前歴がわからない代表的な人物。家柄などのバックグラウンドがないのにも関わらず、信長の家来のナンバー1・2になれたのは、内助の功があったからではないでしょうか」

明智光秀と妻・ひろこは親が決めた結婚でした。ふたりはお金がなくて苦労しており、光秀が主君から命令を出されても、お金がないから、その仕度ができなかったとか。

「そのとき、妻のひろこは、自分の髪の毛を切って、それを売ってお金にしたんです。そんな妻だから、明智光秀は側室をもちませんでした。お互いに信頼関係があったからでしょうね」

3人目に紹介するのは、大河ドラマ『功名が辻』の主人公、山内一豊の妻・ちよ。彼女はお裁縫がとても上手だったそう。

「かつて、裁縫上手であることは、結婚相手として重視されていた条件でした。縫物ができることは、手先が器用であり、手が細かく動く人は頭の回転が早く、そういう人は賢いと判断されていたようです。山之内一豊の妻・ちよのお裁縫の腕は、一豊と結婚したあとに生きてきます。例えば、秀吉に献上し、気に入られたという着物。ちよさんは、女性ものの着物である小袖を、布の切れ端をつないで作ることが上手でした。上司に気に入られるほどの着物を仕立てる妻が、夫の出世に一役買ったことでしょう」

ほかにも、ちよが賢妻といわれる逸話が3つありました。

「1つ目は、自分が結婚するときに持参したなけなしの10両を夫に渡し、手柄をたてるために必要な馬を買うように勧めたことです。貧乏暮らしの中、自分のお金を夫に差し出すというのは、なかなかできることではありません。2つ目は、家族のように家来に愛情を注いだこと。秀吉の妻・高台院と同じですね。ちよの行動の背景は、災害の時に拾った男の子を育てるも、後継ぎにはできないからと、10歳でお寺に出家させます。そのときの悲しみがあった分、自分たちの家来に愛情を注いだのでしょう。3つ目は、夫が亡くなったあと、出家して家から出て行ったこと。関ケ原の戦いのあと、一豊は10年ほどして亡くなります。ちよは25万石の城で悠々自適に暮らせるんです。でも、出家して、城から出ていきました。出家した表向きの理由は、旦那さんを弔うためでした。でも、彼女が出家した妙心寺で、彼女が10歳まで育てた男の子が立派なお坊さんなっていたんです。彼女は彼のことを忘れいませんでした。大名の妻の役目を果たした、第2の人生として、その息子と過ごしたのです」

近代の日本にも、賢い妻はたくさんいました。代表的なのは、初代総理大臣・伊藤博文の妻・梅子。

「彼女は、家庭が貧乏で、字が読めず、書くこともできなかった。でも、全国を飛び回る夫・博文と連絡をとる手段は手紙しかない。だから、大人になってから読み書きを身に付けました。さらに、外国との交渉をする夫についていくために、英語もペラペラになるまで頑張ったのです。とにかく、旦那様のために尽くすんです。それでも夫・博文は、女性と仲良くする。国会が終わったら、すぐに花街に出かけてしまうほどの女性好き。博文が家に芸者さんを家に連れてきたときも、梅子は主人がいつもお世話になっています、とお土産を渡していたという逸話があります。」

しかし、献身的な妻がいながら、伊藤博文は、自宅のお手伝いさんに子供を産ませてしまったそうです。

「そのときは、梅子は烈火のごとく怒った。芸者さんはプロの方ですが、普通の方にそういうようなことをするのは許せません、と厳しくいったという話が残っているのです」

夫の浮気を止めさせた妻として知られるのは、19世紀に活躍した英国首相・ディズレーリの妻・メアリー。

「ディズレーリは何度も結婚と離婚を繰り返します。当時、政治家はお金が必要でした。お金がなくなって困ったときに、お金持ちの娘と結婚する。そんな彼をメアリーは信じぬいたんです。すると、やがて彼は彼女のお金ではなく、心に頼るようになった。その結果、浮気しなくなったというお話があります」

そのほか、夫のやりたいことを信じ続けて、アメリカの自動車王にまでになったヘンリーフォードの奥さんの話や、松下幸之助の妻・むめのさんについて「家内はなかなか文句の多い人で、私の今日までの歩みは仕事の戦いと妻との闘いだった」と語っている晩年の雑誌のインタビューの話など、盛りだくさんで講座は進み、大盛況のうちに幕を閉じました。

今回、この講座のために、本を読み返したり、歴史上の妻を改めてリサーチしたという金谷さん。

「内助の功というと三歩下がって夫についていくというイメージですが、それだけではない、という印象をもちました。歴史は、過去の成功と失敗のデーターベース。いろんな人たちの生きざまから学べることは本当に多い。旦那さんや家族への接し方について、歴史を紐解いてみると、ヒントが見つかると思います」と言います。

今回、金谷さんが紹介してくれた女性たちをモデルにした小説なども数多く出版されています。興味を持たれた方は、ぜひ、探してみてください。

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